音楽療法士の藤井文香さんが母校で講演

三島高校から出発した音楽療法士への道

日本音楽療法学会認定音楽療法士 藤井文香(昭和55年卒業)

【はじめに】

 皆さん、こんにちは。日本音楽療法学会認定音楽療法士の藤井文香です。 現在日本において、音楽療法士は国家資格には未だなっておらず、学会認定です。私は、その学会(日本音楽療法学会)の認定を受けた音楽療法士ということになります。

認定を受け、今年で13年が経ちました。 因みに、聖路加国際病院名誉院長で100歳を越えても現役の医師を続けられた日野原重明先生(本年7月ご逝去)は、この学会を創立するにあたり、ご尽力された方のお一人です。

 

【音楽療法について】

◎音楽の持つ働き

  • 「校歌」を歌って考えてみよう♪

 まず、音楽療法とはどんなものなのか?説明をしたいと思いますが、音楽は目に見えず時間の流れと共に消えてしまう抽象的なものです。それを使った療法を短時間で説明し、解って頂くのは難しいことですので、今日は実践を交えてお伝え出来ればと思います。そこで、実際に何か音楽をやってみて、音楽の持つ働きについて考えてみたいのですが、今日ここにいる全ての人が知っている音楽(曲)は何でしょうか?それは「校歌」ですね。私が在学中、学校行事では1番と3番のみ歌っていたように思いますが、現在も同様とのこと。でも、今日は1番から3番までフルに歌って欲しいと思います。

では、ピアノ伴奏の生徒さん、宜しくお願いします。

 全員で校歌斉唱♪

では、校歌を歌ってみたところで、音楽の持つ働きを幾つかお話ししたいと思います。

  1. 「校歌」と言えば、入学式・卒業式・始業式・終業式…ですが、こういうシーンで校歌を歌うと、「入学して高校生になったのだ~」とか「ああ今日卒業するのだ~」など、しみじみと実感が湧いて来て、その場の雰囲気が作られていきます。
  2. また、高校野球でも勝つと校歌を歌いますが、歌うことによって達成感が感じられ、モチベーションの向上に繋がります。そして、全員で1つの歌を歌うことは、一体感が得られ、グループコミュニケーションの発展にも役立ちます。つまり、2人以上で音楽をすると、それ自体がもうコミュニケーションということになります。先程も、合唱する皆さんやピアノの伴奏者が、お互いの音を聴き合いながら音楽を作り上げられましたが、その様な協調性を活かしたプログラムがコミュニケーションに障害を抱える方の音楽療法として実施されています。
  3. 更に、卒業して年齢を重ねても校歌を歌えるという方が結構いらっしゃいます。懐かしい歌を歌う事で記憶が甦り、身心が活性化される等、認知症の治療にも使われています。
  4. また、先程皆さんが歌唱される様子を拝見しておりますと、身体でリズムをとりながら歌ってらっしゃる方がいました。音楽は運動を誘発しますので、身体の麻痺がある方などのリハビリにも役立てられています。
  5. それから、歌を歌うということは、言葉の訓練になります。先程お話ししたリハビリもそうですが、音楽は旋律とリズムから構成されていますので、それに乗ることで訓練がよりスムーズに進むようです。
  6. そして、歌を歌ったり、楽器を演奏することは、身心の発散になります。例えば障害を抱えていて自己表現が困難な方、特に言語機能が未発達な方にとっては、自分の気持ちを表現出来ずストレスが溜まってしまいます。そういった方が思いっきり太鼓をたたく等してストレスを発散されたり、その時のご自身の心情を楽器演奏で表出されたりします。

 まだまだ音楽の働きは沢山ありますが、この様な機能を身心の不具合のある方に意図的、計画的に活用して治療を行うのが音楽療法ということになります。

  • ちなみに、どんな人が校歌を作ったのだろう?

 音楽療法士が楽曲を用いる際、それがクライアントにとってどういう意味のある曲なのか?よく検討します。特に、作詞・作曲者について調べることはとても重要です。そこで、三島高校の校歌はどんな人が作ったのか調べてみることに致しました。作曲者は「夏の思い出」「雪の降るまちを」等の唱歌や沢山の校歌・社歌を残されている「中田喜直」です。日本における20世紀を代表する作曲家の一人と言えます。一方、作詞者「白木豊」については、この地域で生まれた人だということが分かり、土居支所の隣にある暁雨館(郷土歴史館)を訪ねたところ、館長さんが沢山の資料を見せて下さいました。その資料をもとに、館長さんとお話しをする間に「白木豊」像が浮かび上がって参りました。ここで、皆さんに「白木豊」の年譜を見て頂きながら、どんな生涯を過ごされた方なのか?ご説明をさせて頂きます。

◇「白木豊の生涯」年譜◇ ーーー→このページの末尾を参照くださいーーー

 

 この年譜から作詞者の人生がどんなものだったのか、理解を深めたところで、もう一度校歌を見てみましょう。

 

♪~三島高等学校校歌~♪

  1. 花咲きかおる 三島が丘の 伝統栄えある 学びの庭に
    若人われらの 血汐は燃えて 菱門の旗 風に鳴る
  2. 翠波の山の 空澄みわたり 独立自尊の 道行くわれら  
    見おろすひうちの 波清らかに 眼涼しく ここにあり
  3. 日に新たなる 真理の泉 いやます緑の 友がき繁く  
    平和の歌声 地平に徹る 三島高校 光あれ

 教育者としての白木豊さんは、尋常小学校の先生に始まり、遂には大学の先生になられます。その間、苦悩された時期もあったようですが、常にひたむきに努力をされ、ご自身で人生を切り開いて行かれた人だと思います。校歌の2番の歌詞に「独立自尊の道行くわれら」とありますが、ここにそういう白木さんの姿勢が描かれている様に感じます。

 また、3番の最後に「平和の歌声地平に徹る三島高校光あれ」とありますが、広島で奥様やお子様を亡くされた被爆体験から、平和への切実なる祈りがここに込められているのではないでしょうか?そう捉えてみると、この校歌は作詞者の人生や思いが散りばめられた素晴らしい歌だと言えます。学校行事の際、時間の都合もあるとは思いますが、是非、2番の歌詞も含め、皆さんには誇りを持ってこの校歌を歌ってほしいと思います。

◎音楽療法の手順

  次の様な手順で音楽療法の実践を行います。

  1. クライアントの情報収集(ご本人・ご家族・職員さんから)
  2. インテイクセッション(初回の音楽療法)
  3. アセスメント(クライアントの抱える問題に対して音楽療法で対応出来ることは何か)
  4. 目標と方法の設定
  5. セッションの実施・記録・ランニングアセスメント(修正点)
  6. 評価

◎体験型ワーク

  • セラピストの仕事の中から
     ここで、2人1組になってもらい1つのワークをやってみたいと思います。まず、目を瞑って、入学して今日までの中で1番の想い出を浮かべてみて下さい。そして、それをペアを組んだ相手と伝え合って下さい。更に、卒業式にその相手に音楽を贈るとすればどんな曲を贈りますか?それも伝え合って下さい。
    ※《フロアにて生徒さんにどんな曲を贈るかインタビューをすると、2組の男子生徒さんが応じてくれる。各々曲名が伝えられ、何故その曲を贈りたいかも発表された。》
     上手く伝えられた方もいれば、思うように話し合えなかった方もいると思いますが、このワークを通じ、人を理解するということや、人に解ってもらえるよう自分を表現することはとても難しいということを体験してもらえればと思います。
  • セラピストとして心掛けていることの中から
     毎回、音楽療法を行う前にやっていることがあります。それは、自分の状態を確認しておくということです。例えば、その日風邪気味であったとすれば「今日は風邪気味で心身の気だるい私が音楽療法をするのだ。」とか、嬉しいことや楽しいことがあった日は「今日はどこかウキウキした自分が音楽療法をするのだ。」というように、その日の自分をチェックしておきます。そうすることにより、ものの見方にバイアスをかけずに済みます。身体のコンディションや気分・感情というものが非常に影響すると思いますので、いつもこのようなことを心掛けています。

以上、音楽療法について、実践を交えながら説明をさせて頂きました。

【音楽療法士にたどり着くまで】

◎音楽療法との出会い

  • ピアノの教室を通じて
     夫の転勤に伴い札幌に住んでいたころ、ピアノ教室に来ていた一人の女の子が病気にかかってしまいました。病状は非常に重くなり、お母様は彼女を車椅子に乗せてレッスンにみえるようになりました。ピアノ椅子の背にもたれながら、鍵盤に何とか指を置ける状態でしたが、女の子は何とかしてピアノを弾こうとします。身体が苦しい状態にもかかわらず、ピアノを弾こうとするのは何故なんだろう?それが、初めて音楽を音楽療法の視点で考えた時でした。
  • 育児の中で感じていた音楽のちから
     子供が生まれた頃に、子守唄を歌うと何故子供は眠るのだろうか?子供の背中を一定のテンポでトントンと打つと泣き止むのはどうしてだろう?と、育児をしながら音楽の持つ力について考えたことがありました。また、子供が成長し学校に行くようになると、テストで思うような成績がとれなかったとか、学校でうまくいかないことがあり帰宅した日に、私が弾いていたショパンの物悲しい曲を「お母さん、今の曲もう一度弾いて!」とリクエストされたことがあり、どうして人間は落ち込むと悲しい曲を聴きたくなるのだろう?と思ったことがありました。
  • 自分が学んだ音楽は何かの役に立つのだろうか?
     このようなことを経て「人間は何のために音楽をするのだろう?」「私が学んだクラシック音楽だけではなく、どの人にも当てはまる普遍的な音楽の力を探究してみたい」「その上で、自分が学んだ音楽を何かに役立てたい」ということを、強く思うようになって行きました。
  • 重度障害児者施設での音楽活動を経て~恩師との出逢い
     そこで、障害を抱える方の所で音楽をさせて頂きたいと考えていたところ、当時住んでいた地域の重度障害児者生活訓練ホームで音楽活動をさせてもらえることになりました。数ヶ月経ったある日、職員さんから手渡された県の福祉便りに、後に私の恩師となる先生が書かれた音楽療法の記事が掲載されていました。記事を読むうち、私が探究したいことの手掛かりがそこにあるように思え、先生を訪ねました。そして、アシスタントをさせて頂きながら音楽療法の実践を学び、学会研修を受ける方法で系統立てた勉強を始めたのでした。40歳を前にした頃のことです。

◎ふり返ると三島高校から始まっていた音楽療法士への道

  • 音楽大学受験へと導いて下さった担任の先生との出逢い
     高校1年の秋、進路のための二者面談がありました。私の担任は音楽専科の柳瀬志郎先生でした。先生は特に進路志望の無い私に、翌日音楽室に来るよう言われました。ピアノで色々な音を弾かれ、私にその音を答えるよう言われましたので、一つ一つ答えてみたところ、「どうも音感が良いようだ。子供の頃からピアノも習って来ている様だし、音楽大学を受験してみたらどうだ?親とも相談し、三者面談までに考えておくように。」とのことでした。私の両親は音楽大学など大変だし他の進路をとのことでしたが、三者面談の日、先生は母が席に着くやいなや「お母さん、いいですか!この子には音楽させます!」と、スパッとおっしゃられ驚いたことを今でも鮮明に覚えています。先生の勢いに圧倒された母と私は、音楽大学受験に希望を感じ、音楽大学のピアノ科へと進路を決めました。
     音楽療法士となった今、セラピストとして音楽を自由自在に操れる技術と知識を身につけることは必要不可欠だったと思います。音楽大学受験に導いて下さった柳瀬先生と三島高校で出逢えたことに感謝です。
  • 事例研究を進める中で励みとなった教科担当の先生の言葉
     音楽療法士の認定を受けるには、自分の行った臨床について事例研究をまとめ、それを学会で研究発表することが必須でした。その事例研究に取り組んでいた頃、三島高校の教科担当の先生が授業中にかけて下さった言葉をふと思い出すことがありました。化学の三嶋先生の「音大受験には化学は必要ないだろうけど、無駄なことは何一つない!寝ながらでも良いから聴いておけ!」という言葉や、英語の秋山(現在は高橋)先生の「東京に行くとピアノの上手な人は沢山いるよ。英語で1点でも多くとって合格しなさい!」と言われ、みっちり扱かれたこと等、当時は右から左にスルーしていたと思う言葉が甦り、研究に対しひたむきであれ!と励まされておりました。

【結びに】

 このお話を閉じるにあたって、昨年3月のエピソードをお話ししたいと思います。

 音大受験に導いて下った柳瀬先生ですが、私が音楽療法士になったことを報告出来ないまま、7年位前に亡くなられてしまいました。いつか先生のお墓参りか、お線香を上げに伺うことが出来たらと思い、携帯に先生の住所を登録してありました。しかし、先生のご自宅は今治にあり、帰省しても中々お訪ねすることが出来ず月日が流れておりました。

 ところが、昨年春に帰省中、私の両親の希望で来島海峡大橋のたもとに咲いている河津桜を見に行った際、携帯に柳瀬先生の住所を登録していたことを思い出し、カーナビにその住所を設定し走行したところ、先生のご自宅に辿り着くことが出来ました。奥様がご在宅中で、事情を話すと私を思い出して下さり、先生のお仏壇の前に通して下さいました。先生にお線香を手向けながら、音楽療法士に到達するまでの道筋を報告すると、奥様が「主人が教育者になった意味がここにもあったのですね。」とおっしゃいました。

 その帰り道、私の進路が決まったあの三者面談の日から何年経つのだろう?と計算してみると、38年の歳月が過ぎておりました。ひとつのものに到達し報告が出来たり、また逆に見届けられたりするのに、こんなにも長い時間がかかるものかと感慨深く思います。

 皆さんも、今やっていることが無意味に思えたり、将来の何に繋るのか分からず不安になられることもあると思います。しかし、これからの皆さんのご意志や成行きの中には、沢山の出会いや学びが待っていてくれます。その一つ一つに意味があって、それらが繋がった時、何かが見えて来ると思います。その中で、どんなささやかなことでも構いませんので、学んだことや経験したことを是非何かに活かして頂きたいです。そういう体験をされた時、今ここに自分が存在しているということをより強く実感できると思います。どうか、豊かな高校生活でありますように!

 最後に、「白木豊」の資料をご提供下さった暁雨館の館長様はじめ職員の皆様、この講演の内容をご理解頂きサポートして下さいました同窓会事務局の高橋先生、パワーポイントを作成して下さった井下先生、そして、講演の準備をして下さった全ての方々に心より感謝申し上げます。

 ご清聴ありがとうございました。

以上


◇「白木豊の生涯」年譜◇

明治27年    愛媛県宇摩郡小富士村に生まれる

明治39年12歳 家業を継ぐため高等小学校を自主退学

大正 6年23歳 愛媛県師範学校2学年に入学

大正 7年24歳 愛媛県師範学校卒業  尋常小学校本科正教員免許取得

大正 8年25歳 宇摩郡石川尋常高等小学校教諭

大正 9年26歳 宇摩郡寒川尋常高等小学校教諭

大正10年27歳 宇摩郡蕪崎尋常高等小学校教諭  父源吉死去

大正11年28歳 宇摩郡三島尋常高等小学校教諭  短歌結社「アララギ」入会

大正12年29歳 中等教員試験合格国語科教員免許取得

大正13年30歳 愛媛県立松山城北高等女学校教諭

大正15年32歳 敏子と結婚 斉藤茂吉に師事  中等教員試験合格漢文科教員免許取得

昭和 3年34歳 大東文化学院高等科入学

昭和 6年37歳 大東文化学院高等科卒業 岡山県閑谷中学校教諭

昭和10年41歳 広島高等師範学校教授(漢文) 

昭和20年51歳 8月6日広島にて被爆 妻と子供死去 次女と長男を連れて土居町に帰郷

昭和21年52歳 広島高等師範学校を依願退職 母イセ死去

昭和22年53歳 宇摩郡三村(天満・蕪崎・小富士)組合立 清寧中学校設立のため校長に就任

昭和23年54歳 三村の協議が一致せず学校建設ならず清寧中学校退職

昭和24年55歳 次女・長男を伴って東京に移住

昭和25年56歳 現大東文化大学事務局長兼教授

昭和27年58歳 実践女子大学教授

昭和29年60歳 第一歌集「炎」出版

昭和39年70歳 三島高校校歌(作詞)制定

昭和54年85歳 川之江市からの依頼「尾藤二州伝」刊行

昭和55年86歳 6月29日死去

※参考資料 暁雨館「白木豊の生涯概略」より